三月末の長野は、まだ空気が冷たい。

朝、目が覚めると窓の向こうの林檎畑は白く霞んでいた。霜がおりているのだ。吐く息が白くなるほどの気温の中、長靴を履いて外に出ると、足元の土は固く締まっていて、踏むたびにかすかな音を立てた。りんごの木はまだ芽吹く前で、枝だけの姿が朝の薄い光の中に黒く浮かんでいた。こういう朝に農園を歩くのが、私は昔から好きだ。冬と春のあいだに漂う独特の、何かを待っているような空気が、どこか自分の気持ちを落ち着かせてくれる。

その朝、私はふと思い立った。冷蔵庫に、昨秋収穫して保管していた紅玉が数個残っていた。三月末にもなれば在庫もわずかで、こうして残っているのは、小ぶりだったり形が不揃いだったりするものが多い。売り物にならないわけではないが、自分で使うには十分すぎるほどのものだった。

タルトタタンを作ろう、とそのとき思った。

農園主が紅玉でタルトタタンを作ろうと思った理由

タルトタタンは、フランス生まれの焼き菓子だ。りんごをキャラメルで煮て、上からパイ生地を被せ、焼き上がったあとに逆さにする。シンプルなようで、その工程のひとつひとつに気を抜けない場面がある。

私がこのお菓子に惹かれてきたのには、理由がある。紅玉という品種は、加熱しても果肉が崩れにくい。一般的なりんごは高温にさらすと形が崩れ、煮くずれてしまうものが多い。けれど紅玉は違う。高温のキャラメルの中に沈めても、その輪郭を保ちながら、ゆっくりと甘くなっていく。農園でこの品種を育て続けてきた数十年余りで、私はそれを繰り返し確かめてきた。

そしてもうひとつ。紅玉の酸味だ。この品種は、国産りんごの中でも群を抜いて酸味が強い。生で食べると唇がすこし緊張するくらいの、きりりとした酸っぱさがある。これがキャラメルの重たい甘さと組み合わさったとき、どんな味になるのか。長年紅玉と付き合ってきた私でも、焼き菓子の中での化学反応は毎回、少し緊張する。

材料を揃える:紅玉を選ぶ朝

冷蔵庫から紅玉を5個取り出した。皮は鮮やかな赤で、手のひらにのせると少しひんやりとしていた。農園で育ったりんごは、買ってきたものとは香りが違う。鼻を近づけると甘酸っぱいような、青くさいような、複雑な香りがする。その香りを確かめながら、包丁を入れた。するりと刃が通り、白い果肉が現れる。

材料はシンプルだった。グラニュー糖、バター、冷凍パイシート。スキレットは以前から愛用しているオーブン対応の鉄製で、直径20cmのものを使った。キャラメルもりんごの炒め付けも、そのままオーブン焼きまで一貫して使えるため、このお菓子には欠かせない道具だ。スキレットをお持ちでない方には パール金属 スキレット 20cm が使いやすくておすすめだと申し添えておく。

パイシートは前夜から冷蔵庫で解凍しておいた。冷凍のまま使おうとして一度失敗したことがある。それ以来、これだけは前日から準備するようにしている。

りんごの炒め付け

スキレットにバター20gとグラニュー糖30gを入れ、中火にかけた。バターが溶けてじわりと砂糖と混ざり合う。その中に紅玉のくし切りを並べ、片面3〜4分ずつ丁寧に焼き付けた。表面が少し色づき、りんごの香りが台所に漂い始めると、やはりここに紅玉を選んでよかったと思う。酸味の強い品種は加熱されるほどに香りが立つ。甘いりんごにはない、複雑な芳香だ。

キャラメルは、かき混ぜてはいけない

炒め付けたりんごを一旦取り出し、スキレットにグラニュー糖130gを入れた。ここからが、タルトタタン最大の緊張場面だ。

かき混ぜると、すべてが台無しになる

砂糖が溶け始めると、反射的に混ぜたくなる。しかしそれが失敗のもとだ。かき混ぜると砂糖が再結晶化し、白くじゃりじゃりとした塊になってしまう。中火のままスキレットをゆっくりと揺するだけ。縁のほうから溶け始め、やがて全体が飴色になっていく。その変化を、息を詰めるようにして見ていた。

琥珀色に変わった瞬間、火を止めてバター40gを投入した。ジュッという激しい音とともに蒸気が立ち上り、思わず顔をのけぞらせた。ここで慌ててはいけない。余熱でゆっくり混ぜ合わせると、とろりとしたキャラメルが完成する。焦がしすぎると苦くなる。そのぎりぎりの琥珀色を見極めるのが難しい。今回はうまくいった、と思った。

その上に、炒め付けたりんごを隙間なく放射状に並べた。断面が下になるよう、丁寧に。この作業に、どこか農園の畝を整えるときの気持ちが重なった。

190℃のオーブンで40分。焼き上がりを待つあいだ、台所にはキャラメルの甘い香りとバターのこってりとした香りが混ざり合い、それだけで食欲をそそった。

反転の瞬間と、紅玉だけが出せる味

取り出して10分ほど冷ました。皿をスキレットの上に当て、一気に反転させる。この瞬間がいつも怖い。うまく外れなかったら。りんごが崩れていたら。そんな不安を抱えながら、ゆっくりと返した。

ことん、と皿の上に落ちてくる音がした。見ると、きつね色に焼けたパイ生地の上に、艶やかなキャラメル色のりんごが整然と並んでいた。崩れていなかった。紅玉の果肉は、長時間の加熱をくぐり抜けても形を保ち、透き通るような飴色になってそこにあった。

一口食べた。

最初にキャラメルの甘さが来て、すぐ後から紅玉の強い酸味が追いかけてくる。その酸味がキャラメルの重さをすっきりと引き締め、くどくなりそうなところを清潔に整えていた。なるほど、と思った。この品種でなければ、この味にはならなかったのだと確信した。

バニラアイスを添えて、妻と娘と三人でテーブルを囲んだ。娘が「また作って」と言った。それだけで十分だった。

農園主から、読んでくださるあなたへ

タルトタタンは難しいお菓子に思われがちだが、コツさえ押さえれば家庭でも必ず作れる。そしてそのコツのひとつが、素材選びだ。加熱しても崩れにくく、強い酸味でキャラメルを引き締める。その役割を果たせる品種は、紅玉をおいて他にないと私は思っている。

今年の紅玉は、オンラインショップでも農園直送でお届けしている。ぜひ手に取って、その香りと重みを確かめてほしい。そして、ある寒い夜にでも、このタルトタタンを焼いてみてほしいと思う。

キャラメルが琥珀色に変わる瞬間を、どうか目を離さずに見ていてほしい。